2008年07月08日

アニメーション時代

鶴崎工業を卒業して、代々木アニメーション学院に、入学するために、上京。

東京では、風呂無し・トイレ共同の四畳半のアパートで暮らしながら、学校に通っていました。

実家では、何もかもが、有るのが当たり前、やってもらうのが当たり前の状態だったので、最初は、その環境に慣れるまでに時間がかかりました。

お金が無くて、銭湯にも毎日いけなかったし、洗濯は、家から離れたコインランドリーで。

食べる物も、腹一杯食べることが出来ない毎日。
最初は、ホームシックになったこともあり、かなり堪えました。

生活のために、焼き鳥屋でバイトをしていましたが、時給は安くても、「食事つき」でご飯をいっぱい食べることが出来るのが、何より嬉しいことでした。

学校から帰って、すぐにアルバイト。
夜1時頃にアパートに帰り、それから朝まで課題をこなす・・・そんな毎日でした。

たまに、学校の友達と、渋谷や、新宿に行ったのですが、大分から出てきた自分は、人の多さ・街の大きさに圧倒されました。

実家にいる頃は、竹町の商店街に行くのですら、「人が多くて嫌だな」と思うくらいだったので、その人の多さ、何より、移動の時の電車の人の多さに参りました。

通勤時間帯の電車の人の多さには、本当にうんざりさせられました。
もう、本当に身動き一つ取れないんです。
慣れないうちは、目的の駅に着いても、電車から降りることが出来なかったりしました。

最初の3ヶ月くらいは、「大分に帰りたい」と常に思っていました。

たまたま、同じ大分から上京していた人間がいたので、お互いに励ましあいながら、やってこれたのが、救いでした。
東京にいても、同じ大分弁で話せるというのは、とても、くつろげる時間でした。

今は、神奈川の田舎の方に住んでいて、落ち着いています。
大分の実家があるところよりも、田舎です(笑)山と畑しか無く、周りには、コンビニくらいしかありません。

もう、都内には住めないですね。

今は、仕事の都合で、こちらにいますが、自分は、根っからの田舎者だと思います。
いつか、大分に帰って暮らしたいです。


小学校で熱気球体験教室



Posted by 中島出身 at 03:25│Comments(0)その他日常
 
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