2008年07月20日
熱気球の歴史について
熱気球の歴史は、1783年に始まります。
そしてそれは、人類の空の歴史のスタートにもなりました。
フランスの製紙業者であった、ジョセフ・M・モンゴルフィエと、弟のジャック・E・モンゴルフィエの、モンゴルフィエ兄弟が、熱気球による人類初飛行を成功させました。
彼らは、人類初のと鳥人間をめざす、村の科学者でした。
1783年、6月5日。
フランスのアノネイで、公開実験が行われました。
気球の開口部では、煙を効果的に出すために、湿ったワラを燃やしました。
本当は、煙ではなく、煙の「熱」が飛ぶために必要な物なのですが、当時は、「煙そのもの」に、空を飛ばすために必要なものがあると思われていたのかもしれません。
続きは次回。
小学校で熱気球体験教室
そしてそれは、人類の空の歴史のスタートにもなりました。
フランスの製紙業者であった、ジョセフ・M・モンゴルフィエと、弟のジャック・E・モンゴルフィエの、モンゴルフィエ兄弟が、熱気球による人類初飛行を成功させました。
彼らは、人類初のと鳥人間をめざす、村の科学者でした。
1783年、6月5日。
フランスのアノネイで、公開実験が行われました。
気球の開口部では、煙を効果的に出すために、湿ったワラを燃やしました。
本当は、煙ではなく、煙の「熱」が飛ぶために必要な物なのですが、当時は、「煙そのもの」に、空を飛ばすために必要なものがあると思われていたのかもしれません。
続きは次回。
小学校で熱気球体験教室
2008年07月08日
アニメーション時代
鶴崎工業を卒業して、代々木アニメーション学院に、入学するために、上京。
東京では、風呂無し・トイレ共同の四畳半のアパートで暮らしながら、学校に通っていました。
実家では、何もかもが、有るのが当たり前、やってもらうのが当たり前の状態だったので、最初は、その環境に慣れるまでに時間がかかりました。
お金が無くて、銭湯にも毎日いけなかったし、洗濯は、家から離れたコインランドリーで。
食べる物も、腹一杯食べることが出来ない毎日。
最初は、ホームシックになったこともあり、かなり堪えました。
生活のために、焼き鳥屋でバイトをしていましたが、時給は安くても、「食事つき」でご飯をいっぱい食べることが出来るのが、何より嬉しいことでした。
学校から帰って、すぐにアルバイト。
夜1時頃にアパートに帰り、それから朝まで課題をこなす・・・そんな毎日でした。
たまに、学校の友達と、渋谷や、新宿に行ったのですが、大分から出てきた自分は、人の多さ・街の大きさに圧倒されました。
実家にいる頃は、竹町の商店街に行くのですら、「人が多くて嫌だな」と思うくらいだったので、その人の多さ、何より、移動の時の電車の人の多さに参りました。
通勤時間帯の電車の人の多さには、本当にうんざりさせられました。
もう、本当に身動き一つ取れないんです。
慣れないうちは、目的の駅に着いても、電車から降りることが出来なかったりしました。
最初の3ヶ月くらいは、「大分に帰りたい」と常に思っていました。
たまたま、同じ大分から上京していた人間がいたので、お互いに励ましあいながら、やってこれたのが、救いでした。
東京にいても、同じ大分弁で話せるというのは、とても、くつろげる時間でした。
今は、神奈川の田舎の方に住んでいて、落ち着いています。
大分の実家があるところよりも、田舎です(笑)山と畑しか無く、周りには、コンビニくらいしかありません。
もう、都内には住めないですね。
今は、仕事の都合で、こちらにいますが、自分は、根っからの田舎者だと思います。
いつか、大分に帰って暮らしたいです。
小学校で熱気球体験教室
東京では、風呂無し・トイレ共同の四畳半のアパートで暮らしながら、学校に通っていました。
実家では、何もかもが、有るのが当たり前、やってもらうのが当たり前の状態だったので、最初は、その環境に慣れるまでに時間がかかりました。
お金が無くて、銭湯にも毎日いけなかったし、洗濯は、家から離れたコインランドリーで。
食べる物も、腹一杯食べることが出来ない毎日。
最初は、ホームシックになったこともあり、かなり堪えました。
生活のために、焼き鳥屋でバイトをしていましたが、時給は安くても、「食事つき」でご飯をいっぱい食べることが出来るのが、何より嬉しいことでした。
学校から帰って、すぐにアルバイト。
夜1時頃にアパートに帰り、それから朝まで課題をこなす・・・そんな毎日でした。
たまに、学校の友達と、渋谷や、新宿に行ったのですが、大分から出てきた自分は、人の多さ・街の大きさに圧倒されました。
実家にいる頃は、竹町の商店街に行くのですら、「人が多くて嫌だな」と思うくらいだったので、その人の多さ、何より、移動の時の電車の人の多さに参りました。
通勤時間帯の電車の人の多さには、本当にうんざりさせられました。
もう、本当に身動き一つ取れないんです。
慣れないうちは、目的の駅に着いても、電車から降りることが出来なかったりしました。
最初の3ヶ月くらいは、「大分に帰りたい」と常に思っていました。
たまたま、同じ大分から上京していた人間がいたので、お互いに励ましあいながら、やってこれたのが、救いでした。
東京にいても、同じ大分弁で話せるというのは、とても、くつろげる時間でした。
今は、神奈川の田舎の方に住んでいて、落ち着いています。
大分の実家があるところよりも、田舎です(笑)山と畑しか無く、周りには、コンビニくらいしかありません。
もう、都内には住めないですね。
今は、仕事の都合で、こちらにいますが、自分は、根っからの田舎者だと思います。
いつか、大分に帰って暮らしたいです。
小学校で熱気球体験教室